「地をゆくもの 星を追うもの」
たいていの場合もそうなのだが、「それ」もシュウにとって、予測済みの出来事であった。
遂に同盟軍がハイランドの地を支配し、長き戦いに終焉がもたらされ、そしてある日、突如同盟軍のリーダーが失踪してから数日後のことである。
その日、シュウは夕食を本拠地の彼の部屋で一人終えた後、まだ裁決の済んでいない書類に目を通し、傍らで彼を手伝うアップルに指示を出していた。
それが一通り終わり、食べ終わった食器と書類を持ってアップルが下がっていったのとほぼ入れ違いに扉がノックされるのを、シュウは膝元の猫を撫でてやりながら、目を細めて見つめた。
「シュウ、俺だ。まだ起きてるか?」
聞きなれた男の声が、ドア越しにくぐもって聞こえ、シュウは落ち着いた声で返答した。
「寝るには早いだろう。鍵は開いているから、入ってきたらどうだ」
この声に応じてすぐに扉が開かれ、声の主が部屋の中に入ってきた。
「よう」
そう言って片手を挙げ、わるびれない笑みを見せたのは、いかつい体躯のビクトールだった。
机の前に腰をすえ、膝の猫の喉を撫でてやりながら、シュウは部屋に入ってきた男の服装を見てさらに目を細めた。
ヴィクトールはいつもの軽装ではなく、マントをつけ、肩から大きな袋を下げている。
それは、どうみても旅に赴くときの姿だった。
シュウが彼の格好に注視しているのに気付いたビクトールは、自分もマントを見下ろした。
「このカッコじゃ、あんたにはすぐばれちまうだろうから、単刀直入に言うぜ」
ビクトールは目を上げ、椅子に腰掛けているシュウを真っ直ぐ見つめた。
「これから発とうと思っている」
「離反するのか?」
「悪いが、そういうことだ。黙って行っても良かったんだが、一応、あんたには言っておこうと思ってな」
「ここを出て行って、どこに行くつもりだ」
旅立ちを聞かされても一向に冷静なままのシュウの態度に怪訝そうにしながら、ビクトールは肩をすくめた。
「先のことは決めてない。とりあえず、フリックの奴もその気だったというんで、しばらくは二人であてもなく楽しもうと思ってるよ」
「彼も一緒か・・・」
そう呟いたシュウに、ビクトールは感じた疑問を口にした。
「もしかして、勘付いてたのか」
「まあな。いつかはそうなるだろうとは思っていた」
あっさりと認めたシュウに、ビクトールは思わず苦笑した。
「お見通しだったって訳か。さすが軍師様だぜ」
シュウの膝の上で大人しく撫でられていた猫が立ち上がって伸びをし、机の上に飛び乗って、不思議そうにビクトールを見上げた。
シュウは短く笑んだ。
「少し考えれば、誰でも察しのつくことだ。ビクトールは、これからやるべき仕事には向いていまい。フリック殿にしてもそうだろうな」
「これからか・・・・・・」
ビクトールは感慨深げに腕組みをした。
「大仕事だな。新しい国を作ろうっていうんだから」
「面倒な仕事だ」
簡潔に応えたシュウは、そこで、人の悪い表情を閃かせた。
「だが、退屈しない仕事ではある。国一つ、私の意を込めていじりまわしても良いと言われているのだからな」
彼の性格を知らぬものが聞けば、その言葉の悪質さに顔をしかめたろうが、ビクトールは低く笑っただけだった。
「本来先頭に立つべき奴がここにはいないんだから、それはあんたの自由だよな。それに、俺もさっさと逃げ出そうとしている訳だし、どうこう言う権利はないだろうさ」
「そういうことだ」
同盟軍の盟主であった少年は、数日前に忽然と皆の前から姿を消した。それが判明した時、城の中は騒然となったが、常と変わらぬ沈着さで彼らを静めたのが、正軍師であるシュウだった。数々の機略で軍を勝利に導いたシュウがまだここに残っているからこそ、同盟軍は平静さを取り戻すことができたのだ。今や、これからのデュナン地方をまとめてゆけるのは、シュウ一人しかいなかった。
そんな軍師の重圧を知っていながらも、ビクトールは城に残ることはできなかった。
彼の性質は、風来坊の二つ名で表わされている通りだ。気の赴くままに新しい地に向かい、そこに馴染むことなく、また去っていく。戦乱を終え、平穏さを取り戻そうとしているこの地に長く留まることは、ビクトールにとって意に染まぬことであると、シュウはとうに承知していた。
「それでは、ビクトールに餞別をやろう」
「へえ、随分気前が良いな」
素直に嬉しそうになったビクトールを一瞥してから、シュウは机の引き出しを開け、机上に滑らせた。
机の上にいた猫が紙を避けて、床へと飛び降りる。ビクトールは不思議そうにそれを取り上げ、内容に目を走らせるうちに、顔をしかめていった。
「おい、これって・・・・・・」
シュウは机に両肘を突いて手を組み、悠然と足を組んだ。微かに笑みを浮かべている。
「同盟軍の正軍師、つまり私の名で、捕縛許可を出してある。・・・実は、ハイランドとの国境付近で、ハイランド残党を名乗る一味が村を襲って略奪を繰り返しているという情報があるんだが、何分、人手が足りなくてな。おそらく単なる盗賊と思われるのだが、かなりの被害がでているんだ。何、フリック殿と二人なら、これぐらいの仕事は朝飯前だろう?」
「シュウ、お前なあ・・・・・・」
呆れ顔で睨みつけてくるビクトールの視線に構わず、シュウは言葉を継いだ。
「二人の手におえないようなら、状況を確認して文を寄越してくれるだけでもいい。何しろ我々は、何事も始めたばかりで、猫の手でも借りたい状況なのだ」
「それがクマの手でもかよ?」
シュウは完璧な笑みを見せて、年長のビクトールを見つめた。
「私に全部押し付けて夜逃げするなら、これぐらいの雑用は引き受けてもしかるべきと思うが、どうかな?」
「分かった、分かりましたよ」
ビクトールは書類を持ったまま両手を挙げ、降参した。
「フリック殿にも、よろしく伝えておいてくれ」
「ああ、念入りに伝えておくよ」
これで話が済んだと判断し、ビクトールは改めて袋を担ぎ直した。
「それじゃあな」
「ああ」
短く言葉を交わしあった。互いに、格別に別れの言葉を口にする気はなかった。
先刻入ってきた扉に近づき、ほんの少し開けたところで、ビクトールは思い出したように振り返った。
「そうそう、シュウ」
「何だ?」
「お前、酒は何が好みだ」
「グラスランド産の赤ワインだ。それがどうした」
ビクトールはにっと笑い、再び扉に向き直ってから左手をひらひら振った。
「りょーかい。今度会うときは、とっておきの年代ものを用意しとくぜ」
彼らしい言葉に思わず微笑して、シュウは応えた。
「期待せず、待っている」
かわいくない奴だぜ、という台詞を最後に扉は閉じられ、ビクトールの姿はシュウの視界から完全に消えた。
甘えるように、再び膝の上に飛び乗ってきた猫の頭を撫でてやりながら、シュウはひそやかな吐息を漏らした。
正直、彼らが羨ましいと思うことがある。
ビクトールにしろ、かの少年にしろ、その身体は軽く、縛られるべき責任すら、彼らを繋ぎとめることはできなかった。
それに引きかえ、己はここに座ったまま、旅立ってゆくものを見送ることしかできない。
性が違うのだと、知ってはいた。
星を追うように飛び立つものと、地の果てを目指して、ひたすら歩いてゆくものと。
だが、それはシュウ自身が選んだことだ。そして、後悔は一片たりともしていない。
だから、これはただの感傷だった。
今夜だけは、いつか叶う再会の為に、彼らの旅の無事を祈ってみても良い。
シュウはそう思い、柄ではないと思わず苦笑を漏らしたのだった。
・・・THE END・・・